特別鼎談

グローバリゼーションの揺り戻しが顕在化する一方で高度情報化が急激に進む現代社会において、中学受験の先に待っている大学もまた変化の時代を迎えている。今、大学で学ぶ意義とは何か。この辺で一度、再定義することが必要かもしれない。私学の雄として並び立つ慶應義塾大学と早稲田大学では、この混沌とした時代に何を学び、どんな力を身に付けてほしいと考えているのか。大学を取り巻く社会の動向や留学の意義、学びの本質などについて、慶應の伊藤公平塾長と早稲田の田中愛治総長、SAPIX YOZEMI GROUPの髙宮敏郎共同代表が語り合った。
髙宮 海外に目を向けると、トランプ政権の大学自治への介入など、さまざまな問題が大学を取り巻いています。一方、ChatGPTをはじめとする生成AIは学生にも身近なものになりました。この時代に大学で学ぶ意義をどのようにお考えですか。
田中 アメリカは今、内向きになっていて、日本でもその傾向が徐々に現れ始めています。しかし、今こそ日本は開かれた国になるべきで、早稲田も開かれた大学になるべきだと考えています。アメリカで勉強や研究が続けられなくなっているアメリカ国籍を持たない学生や研究者の方に向けて、「早稲田で受け入れる」というメッセージを大学のホームページに英文で出しました。
髙宮 多様性の尊重が叫ばれる中、アメリカでは逆行する動きが続いています。
田中 伊藤塾長も私もアメリカの大学院で学びました。世界中から集まる留学生にはいろいろな人がいて、それぞれに独自の宗教や文化、価値観を持っている。国際的な環境にわが身を置いて日本を外から見つめることは、本人にとってはもちろん日本にとってもプラスになります。内向きにならず、オープンに世界を見ることが重要です。
髙宮 実体験を通して多様性に触れることが大事なのですね。
田中 早稲田は創立当初から多様性に満ちた大学で、ダイバーシティの尊重が良き伝統になっています。
伊藤 若者たちは今、多様性が失われがちな生活を送っています。生成AIに何でも相談する一方、SNSは一つ間違えると即炎上し、友人からのLINEにはすぐに返事をしなくてはならない。多様性からどんどん逆の方向に進んでいるわけです。分断が進み多様性が失われる環境で、小中学校や高校、大学はどう教育に取り組むべきか。大きな課題です。
田中 学生が生成AIをどう使っていくかは重要な問題です。AIは大量のデータから平均的な答えを出してくれますが、それを超えるには自分の頭で考えるしかない。AIを超えるクォンタムリープ(※)を可能にするのは人間だけ。学生にはAIをそのように使うよう教育しています。
※量子力学用語の「量子的飛躍」。転じて突然の大きな進歩や飛躍を意味する
伊藤 ChatGPTの創業者の一人と話したときに、知り合いの中学生はいくらでもAIに質問ができると聞きました。例えば、クッキーの作り方から始まり、小麦粉とは何か、どこの国で収穫できるのかと次々に質問するには好奇心が必要です。それが大事で、「大阪夏の陣で豊臣側が勝った場合の映像を作ってください」と複数の生成AIに投げかけて映像を作り、何が違うのかを皆で議論するというような使い方もできます。これからの教育は好奇心をいかに多様に育てるかだと考えています。
その好奇心の延長として世界に出ていくということもあるでしょう。今の若者が置かれた状況の中で、私たちにも学びの場を変えていかねば、という危機感があります。
髙宮 問い続けることができる好奇心をどのように耕していくか。そこがこれからの教育のテーマになりそうです。
伊藤 テクノロジーが進化すると、受験勉強一つとっても効率化が重視され、与えられたものをこなすだけになってしまいます。早稲田創設者である大隈重信や慶應義塾創設者の福澤諭吉は、若い頃にじっくりと時間をかけて学んでいます。大隈は高い志を持って民主的な議会の開設に取り組みました。志や好奇心は「持て」と言われて持てるものではありません。若いときにどれだけの時間をかけて学び、考えるかが重要です。
髙宮 確かに、志や好奇心は誰かに言われて身に付くものではありませんね。
伊藤 現在のように20歳ぐらいから就職活動をしていると、人間本来の生物学的リズムに合わせた成長ができなくなるのではないかと危惧しています。私は、人生の半分ぐらいはスマホでいうチャージの時代だと思っています。残り半分はそれを使いながら時々チャージすればいい。それなのにずっとローバッテリーモードで、人から「やりなさい」と言われることだけをやっていると、自分でものを考えることができなくなる。志、好奇心を高められるのが大学や大学院で、そこには答えを出してくれるツールがいくらでもあります。
髙宮 田中総長はどういう好奇心で、あるいはどういう志で留学されたのですか。
田中 もともと外に出てみたいという思いがありました。もう一つ、私は早稲田の政治経済学部政治学科で学んでいましたが、政治家や国会ではなく、選挙や世論調査など国民が政治をどう見ているかに関心がありました。それには統計分析が必要なので、当時その分野で一番進んでいたアメリカ中西部の大学院に留学することにしました。23歳で日本を出て、博士号を取るのに10年半かかりました。
伊藤 それこそがすごいチャージですよね。まずは徹底的に好きなことをやる。たとえ不安定でも好きなことをやるという経験が大事です。
田中 アメリカで勉強していた10年間は不安の海を泳いでいました。当初は修士で日本に戻るつもりでしたが、次第に政治学が面白くなり、博士課程に進むことにしました。損得ではなく、やりたいことをやるほうがいいと思います。
髙宮 伊藤塾長もアメリカに留学されました。
伊藤 私は小学校から慶應で福澤諭吉の話を何度も聞かされるうちに、「世界に出ていかなくては」という強迫観念のようなものを持つようになりました。アメリカの大学を卒業した父からも、「世界を目指せ」と言われ続けたことが後押しになりました。慶應の理工学部を卒業してアメリカへ渡り、大学院で研究を続けるうちに面白くなって工学の博士号を取ったという経緯です。
髙宮 早稲田、慶應ともに小中高の一貫教育校があります。一貫教育校の強みは何でしょうか。
伊藤 慶應には小学校2、中学校3、高校5の一貫教育校があります。小学校では好奇心を優先してのびのび学び、中学校からはしっかり受験勉強をして入学した人たちと交ざります。3年後には高校で新たに入った人と交ざる。小中高大の一貫ではなく、中学から高校に進むときなどの節目に進学先を選べる仕組みになっています。そんな柔軟なチョイスができるのも慶應の利点です。
田中 早稲田には高等学院と中学部、埼玉県にある本庄高等学院、早稲田実業学校の高等部・中等部・初等部があります。2025年度は、そのうちの98%が早稲田大学に進学しました。3校の生徒に共通するのはのびのびしていること。受験勉強を意識していないのが一番大きいです。
2022年度からは日本医科大が3校からの推薦入学を受け入れてくれていますが、医学部ではオールラウンドに勉強してきた生徒のほうが伸びると聞いたことがあります。3校とも文系・理系を問わず数学は数Ⅲまで学ぶ仕組みと、高2の終わりから卒論を書く仕組みがあるので、じっくり考えることも得意です。だからこそ、大学に進学後も伸びていくのだと思います。
髙宮 高校での文・理分けは非常に独特です。アメリカの学校関係者に説明するとけげんな顔をされます。
田中 日本の大学に入るには文系と理系に分けて勉強したほうが効率的でしょう。ただ、私は効率的= efficientは問題だと思っています。効果的= effectiveでなくてはなりません。効率とはスピードとボリュームのことであり、効果があったときに初めて効率を求めればいいと考えています。
伊藤 何事も効率を追い求めるだけではうまくいきません。自分で試してやってみることが大切で、失敗の経験からも効果は得られます。
髙宮 私が慶應の学生だったころは体育会の準硬式野球部に在籍していました。かつては部活に来ても授業には出ないということもありましたが、今は変わりましたね。体育会をはじめとする部活動ではどんな力を培ってほしいとお考えですか。
田中 慶應・早稲田ともに、勉強もスポーツもしっかりと両立しています。早稲田では、学年が上がるときに所定の単位を取っていなければ、公式戦には出場できません。伊藤塾長も私も体育会の出身ですが、スポーツはセオリー通りやっても勝てるとは限りません。スポーツ選手は答えのない問題の仮説を立て、どうすれば勝てるかを自分の肉体と頭脳の限りを尽くして考えています。実験や調査を繰り返す学問とまったく同じですね。
伊藤 それは演劇や音楽にも共通します。何かに熱中することに意味がある。だから本能的に好きなことをやるのがいいのでしょう。体育会各部は慶應のペンマークを着けて戦いますが、演劇やかるた、将棋、囲碁などの部にも慶應のマークを着けて戦っている学生がいます。私たちはそうした活動すべてを応援しています。
野球部でもテニス部でも、アメリカと違って1軍相当の選手だけが所属するわけではありません。テニスが初心者の学生も入ってくる。部の中で自分の役割を考え、OB・OGがサポートし、縦のつながりと横のつながりの中で、皆で頑張って人と人との絆を作っていくのが慶應の部活動です。
髙宮 慶應は2008年に創立150周年を迎え、早稲田は2032年に同じ節目を迎えます。次の100年、150年への展望をお聞かせください。
伊藤 今から100年後の世界で、人間がどのような生物学的進化を遂げているのかわかりませんが、何より強く思うのは平和な世界であってほしいということです。皆が平和を享受して生活しているところに慶應義塾が貢献できればいいと思います。
田中 100年後、150年後も早稲田は世界に目を開いて自分の頭で考える学生を育てていきたいと考えています。平和という点では、戦争は始まると止まらないことが、今見ていても明らかです。戦争のリスクを明らかにし回避する研究を行う。平和を達成するにはそのような点に価値観を置く必要があります。その価値観を導くにはどうすればいいか。今こそそれを考えなくてはならないと思います。
慶應義塾 塾長
伊藤 公平 氏
1965年生まれ。Ph.D.(Engineering)。1989年慶應義塾大学理工学部卒業。1994年米・カリフォルニア大学バークレー校Ph.D.(博士)課程修了。慶應義塾大学理工学部助手、助教授を経て、2007年理工学部教授に就任。2017年4月~2019年3月理工学部長・理工学研究科委員長。JST さきがけ研究領域「量子の状態制御と機能化」領域総括、文科省 Q-LEAP 量子コンピュータ分野、プログラムディレクタなども務める。専門は固体物理、量子コンピュータ、電子材料、ナノテクノロジー、半導体同位体工学。2021年5月より慶應義塾長。
早稲田大学 総長
田中 愛治 氏
1951年東京都生まれ。1975年早稲田大学政治経済学部卒業。1985年オハイオ州立大学大学院政治学研究科博士課程を修了しPh.D.(政治学)取得。東洋英和女学院大学助教授、青山学院大学教授、早稲田大学政治経済学術院教授等を経て2018年11月より現職。2006年から早稲田大学教務部長、理事(教務部門総括)、グローバル・エデュケーション・センター所長を歴任。学外では、世界政治学会(IPSA)会長、文部科学省中央教育審議会委員、日本学術振興会委員等を多数務め、現在も日本私立大学連盟会長をはじめ要職に就く。
SAPIX YOZEMI GROUP 共同代表
髙宮 敏郎 氏
1997年慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)入社。2000年、高宮学園代々木ゼミナールに入職。同年9月から米ペンシルベニア大学に留学して大学経営学を学び、博士(教育学)を取得。04年12月に帰国後、同学園の財務統括責任者、09年から現職。SAPIX小学部、SAPIX中学部、Y-SAPIXなどを運営する日本入試センター代表取締役副社長などを兼務。